いろんな人が、いろんな思いを持って、生きています。
それぞれに生活があって、喜びや怒り悲しみいろんなものを抱えつつ、そこで活動しています。
自分が関知できる他者も、自分がそうであるように、その思いをもっているのは当たり前のことです。
しかしながら、時々そのあって当たり前の事実をふと見失いそうになってしまいます。
感覚を感じ取ることができるのは、自分だけです。他者の喜怒哀楽は、他者がそれを表現したものを自分の五感で解釈するに過ぎません。ましてや、モニター越しの他人です。そこで表現される他者は、ドット単位のキャラクターであり、チャットウィンドウに表示される文字列の集合です。
他者からみても自分がそう見られていることも、また当たり前のことの筈なのですが、自分という主体の存在のためにそうした想像力は意識されがたくなります。自己と他者との関わり、という表現はここでは相応しくないかもしれません。
それはむしろ、自己のためにどう他者を利用するか、という表現の方が相応しいのかもしれません。
これはコミュニケーションの根源的、原始的な有り様だと考えますが、そこには自己の相対化が他者への配慮欠如しています。
他者をまるで自分であるかのように解釈し、その差異を補完できるように他者を再構成し、相手の要求(欲求でもいいかもしれません。その人自身のために何が「良い」と定義できるか、ということだと位置づけます)とそのコミュニケーションの表現方法の中で、自分の要求と折り合いがつけられるような形を作っていくことが、人と人との望ましい関係だと私は考えます。
時折、他の人がそこにいたとしても、此処には自分一人だけしかいないのではないかというような感覚になります。ただ、自分の心を静かにして、そこで表現されている言葉の意味をかみしめることができればその人の思いが多少なりとも感じ取れるような感覚が生じることがあります。
自分も伝えたい思いがあり、相手もそうしたいと考えて表現したいと思っていることが伝わったというコミュニケーションがあったと感じられるとき、そのときに、私は自分の中に「生きている他者」を感じ取れるのです。
そういうものは、大事にしていかねばならないと思うのです。
(リアルの生活でも、結局のところそこで表現される他者というものはその存在の相対と比較するとごく限られておりますので、極論を言えばオンラインゲームとも変わらないのでしょうけど。)
なんだかとりとめのない、かつまとまりがなく意味不明な文章になってしまったようでアップロードするのも恥ずかしいですが、矢張り、このままアップロードします。気が向いたら推敲するかもしれません。
前置きはこれまでで、本題です。
本日、あみんんさんに副マスターをお願いすることといたしました。
引き受けてくださったこと、ありがとうございます。
ぐっちさんにも、提案頂いたこと、ありがとうございます。
とても恐れ多い役をおおせつかり恐縮しておりますが
あまり気負わずにいつもどおり、
できることをやっていけばいいようなので、
おっちょこちょいですがよろしくお願いします。
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